表題番号:1999A-071 日付:2002/02/25
研究課題中国文人伝説の誕生-西園雅集考-
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 文学部 教授 近藤 一成
研究成果概要
 北宋の元祐年間、都の開封において蘇軾以下16名の当代を代表する文人が集った雅会は、西園雅集として名高く、李公麟画とされる雅集図と米■筆とされる記は、とくに明清時代に繰り返し臨模され、中国文人文化の精華として人々に認識されていた。しかし、西園雅集は南宋以降の想像上の産物であり歴史事実ではないとの見解を明代の一部文人が唱え、近年の研究によって虚構説はほぼ定着するにいたった。今回の考察においても虚構説は妥当との判断に落ち着いたが、その論拠の幾つかについては疑問があり、むしろ当時の歴史状況の理解を大いに誤らせることになりかねないことを指摘した。その一つは、元祐二、三年に米■は南方旅行中で開封の雅会参加は不可能という点である。これは考証の不徹底による誤解で、同じ史料はむしろ米■が開封にいたことを証明する。第二は、北宋の徽宗朝は新法党による旧法党の弾圧が激しかった時期であり、雅集図が描かれたり流布する状況にはなかったとの見方である。確かに時代の流れとしてはその通りであるが、史料批判を重ねると崇寧元年から宣和七年までの24年間中、蘇軾の書や文章が厳しく禁止された時期は、徽宗朝の初めと終わりの8年間に過ぎず、その間の16年間は、建前上の元祐学術の禁にもかかわらず、東坡愛好熱が朝廷にも及んでいた事実が浮かび上がってくる。これは虚構説が、二百年後に突然現れたとして考察の対象とはしなかった元の黄■撰「述古堂記」の再考を促す。というのは、この記は、通説とは異なる徽宗期朝廷の東坡熱を前提にして始めて解釈可能な記述を含み、雅会参会者間の微妙な人間関係を背景に成立しているからである。こうして記を利用可能な史料とすると、雅集伝説の成立は、一気に軾の没後間もない徽宗朝前半にまで遡る可能性が出てくる。文人伝説は、蘇軾の死とともに誕生したといえよう。