表題番号:1999A-067 日付:2002/02/25
研究課題中宮寺の半跏思惟像の制作年代について
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 文学部 教授 大橋 一章
研究成果概要
 奈良斑鳩の中宮寺は創建以来尼寺として1400年近い法灯を守ってきた。今の中宮寺は江戸時代の直前に焼失したため、法隆寺東院の東端の現在地に移転してきたものである。中宮寺本尊の半跏思惟像は一見して飛鳥仏の様式を呈し、また今の中宮寺の地より400メートル東の創建地から出土する瓦の編年は創建法隆寺たる若草伽藍から出土した瓦とほぼ年代が同じであると言われている。したがって、中宮寺の創建は飛鳥時代ということになるが、具体的にいつごろ造営されたのであろうか。
 わが国第一号の本格的伽藍の飛鳥寺は用明二年(587)に発願されたが、私見によると推古十七年(609)には回廊内の堂塔と本尊丈六釈迦三尊像が完成していた。飛鳥寺の造営工事が峠を超すころ、すなわち推古十五年(607)に聖徳太子がわが国第二号の本格伽藍の法隆寺を発願した。聖徳太子は推古三十年(622)に薨去するが、このときまでに金堂と本尊、さらに五重塔は完成していた。このころ第三の本格的伽藍の四天王寺が発願・造営される。
 わが国で本格的伽藍を造営するようになった時代にはまだまだ工人数が少なく、同時進行的に複数もの伽藍を建てることはできなかった。徐々に工人は増えていったが、第二号法隆寺を造営した時点ではまだまだ少なかった。中宮寺は発掘の結果、中門・金堂・講堂が南北に一直線に並ぶ四天王寺式伽藍配置であったが、堂塔の規模は飛鳥寺や法隆寺のそれより小さく、回廊の代わりに築地塀があった。少ない工人で長期にわたって造営したのであろうが、法隆寺の工事が峠を越すと主力工人たちが四天王寺造営のため斑鳩を去ったあと、法隆寺を完成させた工人がそのまま中宮寺を造営したのであろう。瓦は法隆寺のものをつくるとき同時につくっていたものを使ったのであろう。飛鳥寺・法隆寺の金堂は丈六仏用の大きなものだが、半跏思惟像は等身であるから、規模の小さい中宮寺金堂にはふさわしい。
 以上を考えると、半跏思惟像は中宮寺造営において六世紀半ばころの制作であろうか。