表題番号:1998A-534 日付:2002/02/25
研究課題英国におけるNew Labour(新労働党)の教育政策と中等教育再編
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 文学部 教授 細金 恒男
研究成果概要
80年代から90年代にかけて、イギリスのニューライトと呼ばれる保守政権は、社会保障や教育サービスを一元的に国家が行うのではなく、一方で社会の上層部ないし中層部の人々に向けては福祉・教育の民営化も含めて多様な選択肢を用意し、他方で下層部に対しては公的保障の水準を最低限のレベルにまで極力切り下げるという二重構造的な政策をとっていく。公教育についていえば、一方で経済的・文化的に豊かな家庭の子どもたちは市場化された学校を選ぶ自由が与えられるけれども、それ以外の残された子どもたち向けの最低限保障レベルの学校がそれとは別次元のものとしてつくられていった。
しかし、親と子どもたちは、教育内容で学校を選択しているわけではない。学校間の競争が進むなかで、それは多様化ということよりもむしろ、類似化・同一化(similarity)を進める結果となったのだと、イギリスの教育社会学者たちは指摘している。そして結論的にいえば、「選択」と「多様化」政策が推進された結果、「選ばれる学校」と「選ばれない学校」の二重のシステムが促進されてきている。
保守党政権時代に生み出されてきた教育の問題は、1997年の総選挙で政権に復帰した労働党(ニューレイバー)のもとでその後どのように変化したか、あるいはしていないのか、これが今回の研究課題としたところである。
政権復帰後のニューレイバーは、たとえば私学への入学援助制度を廃止し、少数者のためにあてられてきた財政を初等学校での学級規模縮小に振り向けるなど、保守党時代の政策に一定の修正を施してきている。学校間や親同士の過度な競争を緩和し、学校とLEA、公立学校と私立学校とのパートナーシップを強調するなど、すべての子どもに対して公教育が共同的な責任を果たすという方向を一見めざしているようにもみえる。
しかし、イギリスの教育研究代表者たちはニューレイバーの政策動向を冷ややかに見ている。実際、保守党政策に対するニューレイバーの変更のほとんどは、以前の保守党のそれを非常にシンボリックなものにした程度のものである。ブレア首相が唱える、従来の社会民主主義でもなく保守主義でもない「第三の道」とは、教育における市場原理を許容したものであり、1980年代から1990年代初頭にかけて保守党によって行われた改革の主要な部分は変わっていない。教師たちへの対応の面についてみても、成績給の導入など、保守党時代よりも厳しくなっているといえる。
保守党のニューライトから、労働党ニューレイバーへと、これまで進められてきたイギリスの教育改革の主要な特徴は「教育の市場化」である。それは他の社会保障制度の改革などとも共通することだが、従来の公教育制度が教育行政官僚と教師という専門家集団に独占され、官僚化し、非効率になっていると攻撃し、教育サーヴィスの提供者が主権をにぎるのではなく、親たちが消費者として主権をにぎっていくという方向での改革が進められてきた。したがってその改革は、親が学校運営に参加していくなど、親の権利全般の拡大をともなってもきた。また、個別の学校への予算配分や、教員の配置・採用といった人事面を含む権限を個別の学校に委譲するという「分権化」が、学校が市場に柔軟に対応するための方策として進められてもきた。その意味で「分権化」は二重の意味を持っている。
ただ私は、「参加と自治」を確立していくためには、同時に個々の学校の壁を超え、個々の学校を互いに結びつけるような新しい公共的な教育空間を社会のなかに生み出していく努力が不可欠ではないかと考える。そういう公共的なシステムというものをどういうふうにつくり出していったらいいのか、その具体的なイメージはまだイギリスの社会のなかにも日本の社会のなかにも十分に成熟してはいない。
しかし、イギリスにおいては、ニューレイバーの唱える「教育アクション・ゾーン」というものに期待を寄せることもできる。それは、地域のさまざまな階層、さまざまな考え方をもっている人々が協力、共同しあってフォーラム的な会議体をつくり、そこを基盤にして学校のあり方を論議し、当面イギリスで問題になっているfailing schoolを立て直していく努力をしようという計画である。それは学力の低い学校、社会的な不利を抱えた学校を結びつけて協力、共同をつくり、結果として子どもたちの学力を向上させ、不登校の子どもたちを減らしていくというものである。その計画を遂行するために、場合によっては教師の加配をする、フォーラム的な市民の集まりが予算の増額を求めれば、政府はそれに応えるという約束をニューレイバーはしてきた。さまざまな矛盾や欠陥があっても、この点だけはまだニューレイバーの政策に対する一定の期待を抱かせるところでもある。
いずれにしても、中央集権的で官僚的な機構が教育のあり方を規定するという時代は、今の世界の流れからみるとアウトモードになろうとしているのだということだけははっきりしている。ひるがえって日本の場合、この問題をどう考えるかは私たちにとっての宿題だが、官僚制と市場による教育支配に対抗する新しい公共性を求める教育改革が、イギリスでもその他の国々でも模索されていることを思えば、おそらくは早晩この日本でも、問われてくることになるのだろうと思う。