表題番号:1998A-525 日付:2002/02/25
研究課題近代日本の知識人:清水幾太郎とその時代を中心に
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 文学部 教授 大久保 孝治
研究成果概要
 戦後の50年間に雑誌、新聞等に発表された夥しい数の「清水幾太郎論」を収集・分析して、論文「忘れられつつある思想家-清水幾太郎論の系譜」としてまとめた。論文の概要は以下の通り。①戦後の清水の再出発を精神的に後押ししたのは、大熊信行の評論「戦争体験としての国家」であった。清水が戦争と知識人の問題について書いた文章が大熊に評価されたことで、清水は「戦後」に足を踏み入れることができた。②1949年から1960年までの12年間は「清水幾太郎の時代」であった。この時期、清水は進歩的文化人の代表として平和運動に深くかかわった。週刊誌や月刊誌の匿名コラムや覆面座談会で「清水幾太郎」が論じられるようになっていく。大宅壮一は清水を「平和論の神さま」と揶揄し、以後、これが大衆ジャーナリズムにおける清水幾太郎の枕詞として定着した。③米軍基地反対運動の最中、福田恆存や三好十郎らは進歩的文化人の平和運動の党派性(左翼性)を執拗に問いただしたが、清水は沈黙を守った。しかし、やがて清水は内灘闘争や砂川闘争の経験から、平和運動の中心的な担い手であった左派社会党や共産党を批判し、全学連主流派の同伴知識人として安保闘争に突入していく。④安保闘争の末期、清水は共産党や岩波文化人グループと決定的に対立し、闘争敗北後は運動の一線から退き、マルクス主義的歴史観を批判する文章を発表する。清水の「転向」は竹山道雄や今日出海ら保守的文化人からも非難された。⑤1970年代半ば、清水は保守の論客として論壇にカンバックした。一年単位で見るならば、「清水幾太郎論」が一番多く書かれたのが1980年である。それは清水が「核の選択-日本よ国家たれ」を発表した年である。しかし、その翌年から「清水幾太郎論」は激減する。それは言論の世界で清水がアプリオリに負の記号のついた存在に転化したことを意味していた。