表題番号:1998A-158 日付:2003/04/04
研究課題共和主義と自由主義-マキアヴェリ共和主義の再検討-
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 社会科学部 助教授 厚見 恵一郎
研究成果概要
 国家形成理念としての共和主義は、近代的自然権概念の成立以降は、自由主義政治思想の背後に退いてしまったのであろうか。ポコック・テーゼ以降、共和主義思想史の掘り起こしが盛んになっているが、本研究はマキァヴェッリの政治概念の再検討の視角から、初期近代における共和主義と自由主義の関係の一面を探ろうとするものである。Q.スキナーやP.ペティットが述べているように、積極的自由(客観的善への参与=アリストテレス)と消極的自由(私的独立と平和の享受=ホッブズ)というバーリン的な区別によっては、近代共和主義の自由概念を十分に捉えることはできない。むしろ両主義の自由概念の違いは、自由を公私両面にわたる妨害一般の不在と考えて、あらゆる法を妨害除去のための必然的強制力とみる自然権的自由主義に対して、共和主義は、自由を恣意的妨害の不在と考えて、恣意的妨害除去のためにはわれわれ自身という公的領域(=法)に頼りつつ集団的自治を達成しなければならないとみる点に存する。客観的善のうえに国家を基礎づけることができないからこそ私的領域よりも公的領域(法共同体)への献身を優先せねばならないとする共和主義を、マキアヴェリは自身の政治学の中軸としている。かれが、中立国家ではなく、市民的徳を教える歴史の伝統を重視して市民を育てる倫理的国家を要請する理由もここにある。マキアヴェリは、古典古代の共和主義者と違って、公的役割の完遂と人間の卓越性の完成とを区別している。かれにとって公的徳とは人間の卓越的本性の完成ではなく、公務への献身による法秩序それ自体の維持拡大である。公的徳は幸福という自然的共通目標をもたないからである。古典古代から見れば道徳的善と共通善との逆転(L.シュトラウス)と映ったであろう、こうした有徳と幸福の分離、公的徳と私的善の分離は、後のアメリカ革命における自由主義と共和主義との協調(ジェファソン)の下地となっていった。