表題番号:1998A-040 日付:2002/02/25
研究課題中世都市フランクフルトとライン・マイン地域の平和盟約(ラントフリーデ)
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 文学部 教授 小倉 欣一
研究成果概要
 中世期後期の神聖ローマ帝国では、皇帝・国王の「帝国ラント平和」(Reichslandfriede)政策と諸侯の領邦支配権の確立をめざす抗争が続いた。そのなかで諸侯は帝国直属の都市を支配下に組み込もうとし、これらの「帝国都市」(Reichsstadt)は「自由」(Freiheiten、諸特権)を護り、政治的、経済的権益を維持・拡大しようと努め、都市同盟を結成し、諸侯のみならず、下級貴族とも対決した。下級貴族は、14世紀の経済危機のなかで貧困化し、「名誉」(Ehre、対面)を保つため、騎士同盟に結集し、しばしば「盗賊騎士」(Raubritter)となって近隣農村で略奪、放火、殺害を働き、通商路を襲い、都市に対してもフェーデ(Fehde)権を行使したからである。
 フランクフルト・アム・マイン(Frankfurt am Main)は、大市交易の繁栄によって帝国最大の商品市場となり、1356年カール4世の金印勅書で国王の選挙地と定められ、この皇帝が入質した都市代官職を1372年に請戻して自立性を高め、有数の「帝国自由都市」(Freie Reichsstadt)となった。しかし、1381年ライン・マイン地域を中心とする獅子騎士同盟の攻撃に対してライン都市同盟を更新し、シュワーベン都市同盟が諸侯と対決した「都市戦争」にも援軍を送ったが、1388年シュトゥットガルトとヴォルムスの郊外で敗退した。1389年国王ヴェンツェルがエガー帝国議会で盟約したラント平和令を発布し、都市同盟と諸侯・騎士同盟の廃止を決めた直後、タウヌス山地のクロンベルク城の奇襲を企て救済の騎士軍に惨敗し、市長をはじめ大勢の捕虜の身代金と多額の戦争損害賠償金の支払いに追われた。10年後の1399年、帝国ラント平和令を犯した騎士ハルトマン・フォン・クロンベルクの居城タンネンベルク(オーデンヴァルト)に対する諸侯の共同攻略に参加を求められ、市民軍が山上に運搬した「大火砲」が威力を発揮し、城を粉砕し、多数の捕虜を捉え報復を遂げた。それは、都市の経済力による強力な破壊兵器の導入の成果であった。これらのフェーデは、中世世界の二つの勢力の対決であり、騎士の「名誉」と市民の「自由」をかけた闘争は最終局面に入り、戦争と平和の問題は新たな次元を迎えるにいたった。