表題番号:1997A-523 日付:2002/02/25
研究課題1930年代から40年代に『トランジション』誌に発表された作品群にみられるサミュエル・ベケットの思想的変遷に関する考察
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 文学部 専任講師 岡室 美奈子
研究成果概要
ベケットの思想的・文学的変遷を辿る上で決して無視できないのが雑誌『トランジション』である。ベケットは1929年から50年にかけて同誌に数編の詩・評論・小説・翻訳等を投稿している。当時の『トランジション』は、ジョイスの「進行中の作品」(『フィネガンズ・ウェイク』)をはじめとする新しい芸術や思想の発表の場として活況を呈しており、若きベケットに多大なる刺激と影響を与えたと思われる。
 本研究は、1995年に刊行された『トランジション』復刻版を用い、同誌がベケットの思想形成に果たした役割について考察することを目的とするものである。具体的には、執筆者全体の見取り図を作成し、その中でのベケットの思想的位置を明らかにするという基礎作業を行なった。その結果、その後のベケットに多大なる影響を与えることになる広範なジャンルの芸術家や思想家との出会いの場として同誌が機能していた様子をかなり克明に知ることができた。たとえばベケットは1935年に「偶然」ユングの講演を聴いて衝撃を受けたと言われているが、それより前の1930年に刊行された『トランジション』第19、20合併号にはユングの数少ない文学論の一つ「文学と心理学」の、また第21号には『黄金の花の秘密』の抜粋の英訳が掲載されている。どちらの号にもベケット自身が寄稿していることを考えればベケットがこの時点で既にユングの思想に触れていた可能性が高く、従って35年の出会いの偶然性は疑問に付されるべきであろう。またベケットは後にラジオ・テレビ・映画と様々なジャンルに進出することになるが、多様なメディアや機械に関心を寄せる契機となったのも『トランジション』誌上で活躍していた芸術家たちの作品や批評との出会いであったと考えられる。
 今後も引き続き『トランジション』に収録された作品や批評を詳細に検討し、ベケットの作品との影響関係の解明に努める予定である。