表題番号:1997A-357 日付:2002/02/25
研究課題日中戦争下の「親日派」「親中派」に関する研究
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 社会科学部 専任講師 劉 傑
研究成果概要
1937年に勃発した日中戦争はかつて例のみない複雑なものであった。戦争と並行してさまざまな「和平工作」が繰り広げられたことは周知のとおりである。これらの「和平工作」を推進した人々の多くは、いわゆる「中国通」の外交官や軍人、および民間人であった。彼らがどのように日中戦争に関与したかということは、日中戦争史研究の重要な課題の一つである。
 97年度の研究は、主として外交官に焦点を絞って、外務省内の「中国通」の行動を追跡した。日中戦争開始以前、満州をはじめとする日本の既得権益を守りながらも、これ以上中国との関係悪化を防止し、戦争を避ける道を探るのが外務省に課せられた課題であった。言いかえれば、権益への固執という強硬なる側面と戦争回避の道を探るという協調路線が外務省を支配した。確かに広田外相は陸軍との協力関係を機軸に外務省の自主路線を打出したことは否定できない。しかし、満州問題についての中国政府の認識度の高さを考慮すれば、満州国の維持という執念が象徴される佐藤外相の「強硬度」は、彼の一連の協調路線によって相殺できない。
 佐藤外交は特殊な孤立したものではなく、「日本の対外政策、とくにその中枢をなす中国政策が蹉跌したとの自覚が陸軍をふくめて日本の各界に、一九三七年初頭以来浸透し、その反省と再建の気運のかなで佐藤が外相に就任し、それをさらに推進しようとした」事情を考えると、佐藤外交をもたらした「基盤」というものに、もっと大きな意味を持っているように思われる。ところが、外交官の対外認識と政策についての究明はまだまだ不十分のように思われる。陸軍の対外認識は戦局によって激しく左右されることに比べ、外交官のそれは外交官の使命感と経験からして、比較的に安定している。
 本研究は日中国交調整が本格化した一九三五年から日中戦争開始までの二年半、日本の中国政策は何が変ったのか、何が変らなかったのかについて、外交官、とりわけ「中国通」外交官を通して考察し、そして、彼ら外交官の中国認識と政策論は広田外相期から佐藤外相期にいたる日本の外交政策にどのような形で影響を与えたのかを究明することを主な目的とした。また、外交官の認識が戦争開始後の政策形成にどのような影響を与えたかについても考察した。
 一方、中国側の「親日派」の日本認識は、戦後のいわゆる「漢奸裁判」を検討することによって、明らかにした。
研究成果の発表:
1997年12月 「中国通外交官と外務省の中国政策」(軍事史学会編『日中戦争の諸相』)
1998年3月 「審判記録が語る『漢奸裁判』」(『早稲田人文自然科学研究』第53号)