表題番号:1997A-037 日付:2002/02/25
研究課題飛鳥時代の寺院造営組織と造寺造仏について
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 文学部 教授 大橋 一章
研究成果概要
6世紀末から7世紀半ばごろの飛鳥時代の寺院はおよそ50か寺が造営されたといわれている。その第一号としてつくられたのは飛鳥寺であった。私はこの飛鳥寺の造寺造仏についてはほぼ明らかにし得たと思っているが、飛鳥寺につづいて建立されたのが法隆寺である。法隆寺は白鳳時代の天智9年(670)に焼失し、その後再建されたものが現法隆寺西院伽藍である。
 本研究は焼失前の法隆寺、つまり飛鳥寺につづいて建立された創建法隆寺の造寺組織を検討することによって、わが国第二号の法隆寺の建築と仏像がいつ、どのようにつくられていったかを明らかにすることであった。
 従来、法隆寺の創立については天平19年(747)の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』の法隆寺推古15年(607)完成説が知られていたが、これは法隆寺金堂の薬師如来像光背銘文の法隆寺は用明元年(586)発願、推古15年完成説を踏襲していることが指摘されてきた。また最近では薬師像光背銘文は法隆寺焼失後の成立とする見解が強くなっている。それに何より薬師銘の内容を信じると、法隆寺はわが国第一号の飛鳥寺の発願より早く、飛鳥寺の完成前に完成していたことになる。寺院建築や金銅仏を誰一人見たことがなかった飛鳥時代に、百済から造寺工と造仏工が来日し、彼らの指導によってわが国の造寺工・造仏工が養成され、日本人工人を動員することが可能になった時点でわが国初の飛鳥寺造営が発願されたのであるから、同じ時期に飛鳥寺のほかに法隆寺をも造営していたとする薬師銘の内容を信ずることはできない。薬師銘は法隆寺焼失後、国の援助によって再建工事を遂行しようとして、法隆寺をもっとも古い寺に仕立てようとしたことから書かれたものである。法隆寺の発願・造営はわが国の造寺工や造仏工がきわめて少ない飛鳥時代初期に造営されたのであるから、第一号の飛鳥寺の造営工事が峠を越さない限り無理であろう。それ故、飛鳥時代の寺院造営組織を検討するかぎり、法隆寺の発願は推古15年とするのが私見の結論となる。
研究成果の発表
1998年5月30日 「創建法隆寺の建立年代について」第51回美術史学会全国大会(於:早稲田大学)