表題番号:1996A-210 日付:2002/02/25
研究課題九州荘園における地頭領主制の展開について
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 文学部 教授 海老澤 衷
研究成果概要
 鎌倉幕府成立後、九州の荘園に広く地頭が設置されたことが知られている。従来東国の御家人が総地頭として入部し(多くは代官が所領管理にあたったが)、在来の領主は小地頭として位置づけられた。鎌倉時代後期には、幕府は非御家人の武士に対する支配を強め、総地頭は荘園内の所領を拡大していったことが明らかにされている。
 これらの内、本年の研究で扱ったのは豊後国国東郡の田原氏および大野郡大野荘の大友氏である。前者については、宇佐八幡宮の荘園であった田染荘において小領主から見た田原氏がどのような存在であったかを考察し、まとめた。詳しくは、『豊後高田市史特論編 くにさきの世界』(1996年9月刊)を参照してほしいが、鎌倉時代において荘園領主は在地社会で独力で権力を行使することには限界があり、既に多くの点で地頭の力に頼ってした。それ故、地頭が荘園を侵略するという構図はきわめて一面的な見解であることが明らかになったといえよう。次に大野荘における大友氏の場合であるが、地頭領主制を景観復原論のなかにおいてみた。大野荘は大分県の大野川上流域に展開するが、この河川は水量がきわめて豊かであると同時に山間の無数の細かな谷あいから成り立っているという特徴を持つ。このような地域での地頭の開発は、湧水のある小谷を「用作」(ゆうじゃく)として確保した上で、棚田を切り開きつつ、周辺に広がる荒野を薗として把握するものであった。この地方では、小谷最上流部の湧水を「イノコ」と呼んでいる場合が多く、以上のような開発を「イノコ灌漑による開発」と規定することが可能であるが、鎌倉時代にあっては地頭がこのような開発を独占的に行い得たといえよう。したがって、ため池灌漑が発達した瀬戸内・近畿地方とは大きく異なる形態を示していた。拙稿「棚田と水資源-豊後国大野荘の場合」『月刊文化財』400号、1997年1月)参照のこと。