表題番号:1995A-238 日付:2002/02/25
研究課題(1)ロシアの中の「東洋」タタールスタンの歴史と現状(2)ぺレストロイカ以後の「亡命ロシア」現象
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 教育学部 教授 川崎 浹
研究成果概要
私は『ソ連の地下文学』(朝日選書・朝日新聞社 1975年刊)で,ソ連における反対制派の動きを紹介し,革命前のロシア思想と20年代の前衛芸術運動に関連づけながら,その拠ってくる原点をも同時に指摘した。
ソ連の反対制派(のちに異端派と呼ばれる)は70年代半ば欧米に追放されたり,亡命を余儀なくされたりして,ソルジェーニーツィンを初めとする著名な文学者たちが海外に移住し,そこで第三次亡命といわれる活発な文化活動を行った。
さらに周知のぺレストロイカがソ連に起こると,彼らはそれぞれに社会活動を起こし,ソ連或いはソ連崩壊後のロシアの政情にコミットした。彼らの言動を追跡調査し,それを通して彼らの変身と,同時にゴルバチョフやエリツィン,ジリノフスキイが登場するロシア本国の「動乱の時代」を浮かび上がらせることが私のライフワークの目的である。
私は1995年4月米国に渡り,作家アクショーノフや評論家ゲニスら多くの亡命ロシア人と会ってインタビューを行い,資料を集めた。私の研究課題の第一章「ブコフスキイの場合」のために,ケンブリジのブコフスキイに書簡インタビューを行い,また代理人にブコフスキイを訪問させるなどして貴重な証言と新事実を得た。
著作の内容と主題はほぼ次の五章に区分される。
一章:ウラジミル・ブコフスキイのラーゲリ生活の回想を基礎に書かれた『風はまき返す』を紹介しながら,60~70年代の反体制活動についてふれ,1981年米国大統領カーターと会見した歴史的事実の意味,また1991年3月ブコフスキイが14年ぶりにモスクワに帰国した時の本国での反応にふれる。
二章:ニューヨークを舞台にホモセクスを扱ってセンセーションをまきおこしたエドアルド・リモーノフの小説『ぼくエージチカだよ』を紹介し,さらに彼がロシアに戻って右翼のスキャンダラスな政治家ジリノフスキイと組み,1年後に訣別する過程をその著『ジリノフスキイとの訣別』を通して跡づける。彼のエキセントリクな個性と鮮やかなパフォーマンスに注目した。
三章:ウラジミル・マクシーモフとアンドレイ・シニャフスキイの角逐と和解の動きを軸にこの章を展開する。
マクシーモフは94年に「コンチネント」誌を創設し,海外の亡命者たちにひろく執筆活動の場を提供した。20年に及ぶその役割を跡づける。他方アンドレイ・シニャフスキイも「方舟」という小雑誌を20年にわたって出し続けている。亡命後,マクシーモフは宗教的民族主義の立場に傾き,1993年エリツィンが最高会議と対立して議事堂を戦車で砲撃させたとき,マクシーモフとシニャフスキイはとつぜん共同で「反エリツィン声明」を出し,物議をかもした。それまでマクシーモフはシニャフスキイをKGBのスパイ呼ばわりしていたからである。
そのいきさつを「コンチネント」誌の記事とシニャフスキイの評判の小説『お休み』の紹介を通して解明したい。
ぺレストロイカの到来で「コンチネント」誌の編集部はパリからモスクワへ移り,編集長はマクシーモフから従来モスクワに住んでいた評論家ヴィノグラドフに交替した。マクシーモフは1995年春没。
四章:ユダヤ系ロシア人にとって亡命とは何であり,また何であったのか。現在,アメリカとロシアの両方を股にかけて最も活躍している評論家アレクサンドル・ゲニスの『失われた楽園』その他の文献を通して米国の亡命ロシア人の実態に迫る。
五章:アクショーノフの世界的に有名な小説『火傷』,『クリミア島』の紹介,過去の亡命ロシア会議とそこでの彼の発言などをとりあげる。さらにソルジェニーツィンのハーバド大学での講演を振り返り,レーニンを扱った『赤い車輪』やぺレストロイカのためにロシア人に呼びかけた『わがロシア』に言及し,1995年における彼のロシアへの帰国の旅を跡づける。昨年亡くなったノーベル文学賞授賞者,詩人のブロツキイは政治的社会的にはロシア本国に一切コミットしなかったが,彼の創作活動にも少し触れたい。
以上で主題のほぼ半ばを執筆し終わったので,1996年中に残りの半ばを執筆し終わることにしている。