表題番号:1995A-228 日付:2002/02/25
研究課題アイヌ民族史の研究(1)
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 第一・第二文学部 教授 菊池 徹夫
研究成果概要
アイヌ民族とは何か。アイヌ文化はいつ頃,どこで,どのように成立したのか。その起源と系統はどのようなものか。こうした問いが問われてすでに久しく,言語,人類,民族あるいは歴史学の立場から追究が試みられてきたが,なお未解決の問題は多い。ところが近年,北日本における考古学的な発掘調査がさかんになって,この方面からアイヌ文化の形成と展開および変容にかんして重要な手掛かりがつかめてきた。
近世アイヌ文化を古く遡っていくと,15世紀のコシャマインの戦いの頃まではほぼ辿れるが,14世紀以前になると,彼らに関する確かな資料がほとんどなくなり,その姿はしだいにおぼろげなものとなってしまう。
いっぽう,これとは逆に,縄文時代から考古学的に時代を下ってくると,本州の弥生文化・古墳文化にほぼ並行する続縄文文化を経て,9から12~3世紀の擦文文化となる。この一時期,道北・道東部にはオホーツク文化が併存する。要するに,15世紀のアイヌ文化に最も時期的に近いのは,13世紀ごろまでに終末を迎えた擦文文化ということになるが,両者の間,つまり14世紀こそは,文献史的にも考古学的にも,確実な資料に乏しい,文字どおり謎の世紀,暗黒の時代なのである。
しかし,その間に民族移動・民族交替でも認められないかぎり,両文化はスムーズに連続するというのが大方の見方,いやむしろ学界の輿論といってよい。ただ,両者をつなぐ考古学的証拠が極めて少ないのも事実であり,かえってアイヌ文化の中核ともみなされるイオマンテ(クマ送り儀礼)はオホーツク文化の中に辿れそうである。
したがって,アイヌ文化の形成の問題解決には,いまや,擦文文化,オホーツク文化,さらにその母体たる続縄文文化といった諸文化の徹底的解明こそが鍵となるものと思われる。ことにそうした北海道系の土器文化が間欠的に東北地方にまで南下分布する現象についての分析は,東北地方におけるアイヌ語地名の分布の問題と併せて重要であろう。
他方,このところ,例えば日高二風谷遺跡群,上ノ国勝山館遺跡,あるいは余市大川遺跡その他,14~17世紀ごろ,すなわち中世ないし近世初頭の遺跡が調査され,その性格が明らかにされつつある。これまた,擦文土器文化以降,近世アイヌ文化がどのように形成されたかについて知りうるまたとない資料である。
ところで現在の私には,残念ながら関連遺跡を新たに発掘調査するだけの余裕がないこともあり,むしろ,これまで多くの調査研究の結果明らかにされている,おびただしい考古学,文献史学,民族学などの資料・情報を改めて総合的に再検討してみることから始めることとした。
ことに,本テーマに直接関係する北日本地域に限っても,報告・未報告の相当量の出土資料・記録が蓄積されており,そのほとんどが未だ詳細な分析も比較研究もなされていないからである。考古学的研究にあって,本来,確かな目的をもった発掘調査が必須のものであることは言うを待たない。しかし今やそれ以上に既出土資料の詳細な観察や再分析,比較研究が必要な時期に至っているというべきである。
この特定課題研究では,そこで北日本各地で既出土,既報告の縄文文期以降,中・近世に至る各時期のデータを改めて観察・比較検討し,古代的土器文化と近世アイヌ文化との間の懸隔に何とか架橋を試みようと努めた。
とくに今回は,主として擦文文化以降,本州の中世にあたる時期の諸遺跡の内容を再吟味し,そこにアイヌ文化の文化要素がどのように認められてくるかを検討し,かなりの成果を得ることが出来たことを報告し,これを可能ならしめた助成費の交付に感謝する。