表題番号:1995A-105 日付:2013/04/28
研究課題ヨーロッパのアジア化ルネッサンスの問題
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 商学部 教授 田島 照久
研究成果概要
本研究は,戦後ヨーロッパ特に1960年代1970年代に一種の思想的ブームとなった禅(Zen-Buddhismus)が,キリスト教による受容の新たな段階を迎えて,ある種のシンクレティズム的文化現象を呈していることに注目し,そこに現代のキリスト教の抱える課題を明確に浮かび上がらせることを意図したものである。
キリスト教が人類の宗教史に持ちこんだ最大のものは「身体性」をめぐる問題であった。それは端的には「受肉(incarnatio)」という神学的問題として展開されていったが,一方で知性(intellectus)が神の似像(imagodei)であるという中世ヨーロッパ的キリスト教の形態は身体の対極としての精神という領域へと深く傾斜をとっていった。イエスの身体に基づく具体的な教えと癒しとが,すぐれて精神的,内面的救いの問題へと再解釈されていったのである。
しかし今世紀2度の未曽有の世界規模の大戦を経験したヨーロッパはそこに「あえぐ肉としての実存」に直面せざるを得なかった。現代のヨーロッパ的キリスト教の抱える最大の課題の一つが身体性の再評価である。
そうした状況の中で身体性獲得への視座を得る試みは,「受肉」に代表されるキリスト教本来の問題領域へとキリスト教自身が回帰すること,その意味で東アジア的言語系を用いてなす「ヨーロッパのアジア化ルネッサンスの問題」としてとらえることが出来るであろう。本研究では,ユング,メルロ=ポンティ,カール・ラーナーを手がかりにし,「洗礼論」に注目した上で,更にイコノロジーの観点から「イエス洗礼図」を時代的に分析した。そこからイエスを浸す水線の下降傾向が身体性忘却の方向をとっていることを確認。イエスの腹部こそが洗礼における中心であるとの結論を得た。ここから東洋的思惟とのシンクレティズムが展開されていく。
論文では易経,北京白雲観の身体図,道教テキストにおいて下丹田(腹)がいかなる意味を担っていたか克明に跡づけ,洗礼が「下丹田の水域へとプネウマ(気息)によって深く沈みゆくこと」という意味づけに到達するまでを追った。