表題番号:1995A-057 日付:2004/03/16
研究課題マラルメの〈火曜会〉についての研究
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 文学部 教授 川瀬 武夫
研究成果概要
「マラルメの〈火曜会〉についての研究」と銘打った本年度の特定課題研究は,〈火曜会〉というフランス19世紀末の特異な文化サロンの形成過程の解明に捧げられた。
マラルメが後に〈火曜会〉と呼ばれることになるサロンをパリ・ローマ街の自宅で開くようになったのは,1877年のことである。はじめ親しい友人同士の内輪のささやかな集まりにすぎなかったこのサロンは,1884年のヴェルレーヌ『呪われた詩人たち』,並びにユイスマンス『さかしま』の刊行を契機とした詩人の文壇的名声の高まりとともに,一躍活況を呈することとなり,1890年代に入ると,新世代の前衛詩人たちを糾合した「純粋詩の殿堂」とも「象徴派の牙城」とも目されるほどになる。
本研究では,そうした〈火曜会〉の成立と発展の過程を,主に『マラルメ書簡集』前十一巻(アンリ・モンドール,ロイド=ジェイムズ・オースティン編,ガリマール書店)の詳細な読解を通じて,できるだけ具体的に検証するように努めた。それと同時に,〈火曜会〉参加メンバーの回想録等の資料を丹念に蒐集することによって,このサロンの実態(何が話題にされ,どのような人間的交流があったか,等)に迫ろうと試みた。
その結果,明らかになったのは-
(1) 優に20年間以上も続いたサロンだけに,その参加メンバーにはかなりの異同が見られること。たとえば70年代から84年まで,および85年から90年まで,さらに91年以降といった時間軸に沿って,ある程度,常連出席者の分類が可能になるのではないかという展望が見えてきたこと。
(2) 参加メンバーは必ずしもフランス人だけでなく,ヴィエレ=グリファン,スチュアート・メリルといったアメリカ人,ローデンバックのようなベルギー人が常連として出席していたほか,イギリス人のワイルド,アーサー・シモンズ,ドイツ人のゲオルゲが訪れるなど,当時のパリとしてはきわめてコスモポリットな環境が形成されていたこと。
(3) また参加メンバーは詩人たちだけでなく,小説家(モーパッサン,バレス,シュオッブ),演劇人(アンリ・ベック),批評家(エニック,フェネオン),画家(ホイッスラー,ルドン,ゴーガン),音楽家(ドビュッシー)らが多数出席しており,その意味で〈火曜会〉はマラルメとその弟子たちによる均質なサークルというにはほど遠く,実質的にはさまざまな芸術ジャンルの前衛の担い手たちの出会いと交流の場であったこと。
(4) それゆえ,〈火曜会〉は,マラルメにとっておのれの文学理念を弟子たちに伝授する場であっただけでなく,むしろ反対にマラルメの方が当時の芸術上の新傾向,新思潮を受容するための格好の機会でもあったこと。
(5) しかしながら,詩人の最晩年にいたって,こうした新世代の文学者,芸術家の「師」からの奇妙な離反現象が見られること。それと平行するように,マラルメはパリに住むよりも,郊外のヴァルヴァンの別荘で暮らすことを好むようになり,〈火曜会〉そのものがいわば空洞化していったこと。このマラルメを襲った突然の「孤独」の原因はまだ十分に解明できないでいるが,少なくとも若い詩的世代の側からのマラルメ的美学の乗り越えの動きがこの時期表面化していたことだけは確かである。
以上のようなパースペクティヴにたつならば,マラルメの難解きわまりない文学思想の展開を従来よりもはるかに精緻か実証的に辿っていく可能性が大きく見えてきたことを本研究の成果として報告しておきたい。
なお精力的に研究に取り組んだかたわらで,マラルメ研究の第一級の資料たるその書簡についての考察が「礼節と韜晦-書簡におけるマラルメ」(『早稲田文学』,1995年10月号)に,またマラルメにとっての最大の「師」ボードレールとの関係についての考察が「〈危機〉以前の危機-マラルメ《窓》をめぐって-」(『文学研究科紀要』,早稲田大学大学院,第41輯,第2分冊,1996年2月)としてまとめられたことをつけ加えておく。