表題番号:1995A-026 日付:2002/02/25
研究課題精神薄弱者等の権利擁護に関する比較法的研究-ドイツ・オーストリア・日本を中心として-
研究者所属(当時) 資格 氏名
(代表者) 法学部 教授 田山 輝明
研究成果概要
一.高齢化社会と知的障害者
標記のテーマは,まず高齢化・少子化社会との関連で検討されるべきである。最近の人口統計によると(注1の論文等参照),日本の平均寿命は1947年では男50.06歳,女53.96歳であったが,1993年には男76.25歳,女82.51歳となっている。他の論文(注2)でも指摘されているように,日本で65歳以上の人口が7%(高齢化社会の指標)を越えたのが1970年であり,1995年には14%であり,最近の予測によれば,2025年においては23.4%となるとされている。この高齢化の速さに注目し,高齢の故に介護を必要とする者のための法制度の改革が急がれている。
このことは特に知的障害を持つ者に重要な問題を定期している。つまり,障害者の両親の死後に障害をもった子供(成人)が「世話」を必要とする期間が長期に及ぶという事態である。知的障害者の中の発達遅滞者と痴呆性高齢者を含めるならば,まさに知的障害者にとって成年後見制度は,現在最も重要な検討課題となりつつあるというべきである。
2.成年後見の概念について
ところで,成年後見という言葉自体が一般的には何となく馴染みにくい面を持っている。「後見」については,民法において,未成年者のための後見と禁治産宣告を受けた者(主として成年者)のための後見とが規定されている(838条以下)。しかし,最近において,「成年後見」と言う場合には,後者に限定されることなく,身上監護や財産管理の面において障害者の「世話」をすることを意味していると解してよい(場合によっては準禁治産者のための「保佐」をも含めて用いることがある。)
また,「世話」についても,狭い意味では,知的障害者に対する世話を意味するが,広い意味では,身体的障害者に対する世話をも含めてこの概念を用いる場合がある。つまり介護とほぼ同義に用いられる場合がある。
しかし,「成年後見」やドイツ法上の「世話」は,通常は法定代理権を含のものとして用いられるのに対して,「介護」は通常はそれを含んでいないから,その意味では両者が同義に用いられることはないと解してよい。
二.成年後見の対象
1.知的障害を有する成年者
未成年者にも知的な障害や肉体的障害のために自分自身に必要な事務処理ができない者がいるが,障害者が未成年者である限りは,通常は未成年者のための制度(=親権者,それを欠く場合は後見人)により保護されているから,通常は問題にならない。しかし,その者が満20歳に達した途端に,法定代理人は存在しなくなるのである。親だから子供の法定代理人なのではなく,子供が未成年者だから親を法定代理人とする,というのが民法の考え方なのである。したがって,子供が満20歳に達して成年になっても,確かに親は親でありつづけるが(従って必要であれば介護を継続するであるろうが),もはや法定代理人(親権者)ではない。つまり,親だからといって(成人した)子供に代わって法律行為をする権限はないのである。
2.痴呆性高齢者
健常者であった者でも,昨今のような高齢化社会にあっては,アルツハイマー病等の痴呆症にかかってしまう割合が次第に多くなっている。痴呆症にかからないで天寿を全うする人も多いが,誰にでも痴呆になる可能性はあるのだから,各人が痴呆になる前に,自分のそのような事態に備えて一定の対策を用意しておくことが望ましいと言えよう。
このような観点からは,まず遺言がその方策として思い浮かぶであろう。しかし,遺言は自分の死後のためになすものであるから,これは痴呆対策としては用いることができない。そこで,自分で自分の事務処理ができなくなった場合(健常と死の間)を想定して,特定の者を世話人(代理人)に依頼しておくなどの方法が必要となる。しかし,自分でそうした配慮をすることなく痴呆症にかかってしまった場合には自分で世話人を選任できないから,身上監護と財産管理を行う者(世話人)が,裁判所のような公的機関によって選任されなければならないことになる(法定または選定成年後見人)。
3.身体的障害により日常の事務処理ができない成年者
精神的な判断能力が不十分であるために世話を必要とするという場合には,世話の内容として重要なことは,契約のような法律行為を本人に代わって行うこと(代理)である。民法上の後見人が法定代理人とされているのもそのためである。しかし,生活をしていく上で不可欠な世話を必要としている人は知的障害者に限らない。
自分に関する事務はすべて自分で判断できるが,身体的障害のためにその実際の処理ができないという人もいる。この場合には身上監護が重要であり,代理権については必要な限度で授与すればよいし,通常は本人との契約によって代理権を発生させることができる。ドイツの世話法ではこのような場合であっても,契約に基づく世話人を自ら選任できない人のための裁判所の手続きをも定めている。
三.欧米諸国における成年後見制度改革の傾向
国により制度や方法が異なるが,今回は主としてドイツとオーストリア法における大きな流れについて検討した。
1.制度改革の背景
成年後見制度の改革が世界的潮流となった背景的事情の一つに,国連の精神薄弱者権利宣言(1971年)や障害者権利宣言(1975)等に基づく世界的規模の運動の盛り上がりがある。これらの運動は主として障害者の人権の擁護と強化に大きく寄与してきたと考えることができる。こうした運動を通じて障害者の立場に立った後見ないし世話が考えられるようになり,各国においてしだいに従来の法体系ないし法理念の一定程度の転換が迫られることになったと考えてよい。
さらに,各国における高齢化社会の到来をあげることができ,日本も例外ではない。高齢者の間では痴呆症患者の割合も当然に高いから,彼らのための身上監護や財産管理が深刻な問題となってきているのである。
2.ドイツ・オーストリアの新世話法における諸原則
これらの国の制度の根幹を流れている原作は,以下のようにもとめることができる。
(1)本人の意思(自己決定権)の尊重
世話は,世話を受ける側の意思を尊重してなされなければならない。世話を受けるか否か,世話の内容や態様についても,本人の意思が尊重される。特に,施設入所や手術を受ける場合等においては,本人の意思は可能な限り最大限に尊重されるべきものとされている。このような考え方に立って,本人の行為能力の制限も最少限度(日本では禁治産と準禁治産に画一化されている)に留められている。この非画一化という点は,特にドイツ法において特徴的である。
(2)補充性の原則
裁判所が世話人を選任することによって行う公的な世話制度は,私的な世話が不可能な場合に初めて導入されるべきものとされている。自分自身の身の回りの世話や財産の管理は,ほんらい私的自治の原則の支配する領域に属するものであるから,費用負担の問題を含めて,国家の干渉はできるだけ差し控えるべきであるとの考えに基づいている。ここでいう私的自治は,市民社会においては互いに他人の支配領域に不当に干渉はしないということであり,障害者の世話や介護は,親族の負担において行うというような事は意味していない。むしろ逆であり,障害者問題等は社会的な問題として位置づけられている。このような考え方が欧米の法改正の根底にあると考えてよい。
(3)必要性の原則
世話をするに当たっては,本人が必要としている場合に限って,必要としている限りで行う,という原則に立っている。まず,世話の制度は周囲の人(親族など)の利益のための制度ではないという点を徹底すれば,世話ないし後見の申請権は本人のみに与えるのが妥当である。しかし,本人が必要性について適切な判断ができない場合が少なからずあるから,裁判所が職権により手続きを開始できるようにしておく必要がある。日本では四親等内の親族等も申請権者になっているが(民法7条),ドイツ法等の改正にみられるように申請権者を本人に限定し,その代わりに職権主義を導入すれば,親族等が禁治産宣告等を利用(場合によっては悪用)することをかなり効果的に防止することが可能となる。申請権者をこのように限定すると,周囲の者が本人のために世話の必要性を感じた場合に不便であると考える者もいるかも知れないが,必要性を感じた者は裁判所に対して職権の発動を求めればよいのであり,これは利害関係人でなくても,誰でもできるのである。このような法制度が実現すれば,日本におけるように身寄りのない老人のために,禁治産宣告の申請権者を探すような必要はなくなるのである。この職権は狭義の裁判官のみが行使できることが前提である。
(4)個人的世話
世話人は,披世話人と個人的に接触し,個人的需要を満たすように努力し,具体的には本人のリハビリテーションに努めるべきものとされている。従って,身上監護は施設に任せ,財産管理は弁護士や税理士に任せる,というような方法は,特にそのような専門知識等の必要性がある場合にのみ認められるもりと解すべきである。